今週の月曜日、父が亡くなりました。
享年91歳。
90歳まで会社に通い、
一年間で完璧に身辺整理をし、
4ヶ月の闘病生活を経て旅立ちました。
父が体調不良を訴えたのは、私がランタンフェスティバルから帰ってきて3日後のことでした。
もしあと一週間早かったら、ツアーはできなかったかもしれません。
私の帰りを待っていてくれたのかなぁ?
そう思えてなりません。

父が最初に入院したのは、唐人屋敷跡の近くにある病院で、
検査の結果は、末期がんという信じがたいものでした。
でも、見舞いの帰りに病院の周りをウロつく余裕はありました。
それくらい父は元気だったから。

父は模範的な患者でした。
何一つ愚痴や文句を言わなかったし、
看護師さんやリハビリのスタッフさんともにこやかに談笑し、
父の病室からは笑い声が絶えませんでした。

病状が落ち着くとリハビリがはじまりました。
自転車こぎ20分!
でも先生の診断は余命数ヶ月・・・
おーい、もうそんな状況じゃないと思うんだけど。
そんな父を、母は涙を浮かべながら見ていました。
しばらくすると、家族にとって大きな壁にぶちあたりました。
父に告知するか否か?
でも、今はどんなに深刻な病状でも告知は普通のことなんですね。
先生から父に説明があり、それを聞いて父は涙をこぼしたそうです。
(母だけが立ち合いました。)
告知の翌日、病院に向かう足がどれほど重かったことか・・・
しかしミラクル!
父は前日の先生の話をすっかり忘れていたのです。
痴ほうはありませんでしたし、頭はしっかりしてたのですが・・・
なぜか先生の話だけが父の頭から消えちゃったという。
そして母は二度目の告知はしない、と決めました。
父は身体が回復したと思い、先生や看護師さんたちににこやかに挨拶をして病院を去りました。

退院後は、主治医をペインクリニックの先生にお願いしました。
週3回の往診を受けながら、父はいつもの生活に戻りました。
ペインクリニックの先生は、何かあれば24時間電話一本でかけつけてくださいます。
ありがたい!
父にとって(いえ誰でもそうでしょうけど・・・)「自宅」は何よりの薬です。
父の顔色はみるみる良くなり、時にはお酒も飲むようになりました。
そして、遠くにすむ親族が、かわるがわる見舞いにくるので
実家はいつも賑やかでした。
父の最後の幸せな時間は、ちょうど紫陽花の季節だったと思います。

7月には父の91歳の誕生日を祝うことができました。
でも、だんだん疲れやすくなったようで、横になっている時間が長くなってきました。
大阪からきた弟に「今度会う時はもっと元気になってお酒ばいっぱい飲みたかばい」と話したそうです。

父を桃渓(ももたに)橋の近くにあるペインクリニックに連れていったのは8月の始めでした。
父を家で看取りたいという気持ちはやまやまでしたが、
看病している母の体力が続かなくなってきたのです。
母は自分の体調のことを父に話し「パパ、ごめんね」と言ってホスピスに行く父を着替えさせました。
でも、父の頭には母の話が入っておらず、なぜ介護タクシーに乗せられたのか?
理解できないようでした。

父がお世話になったのは「ホームホスピス」というところで
看護師さんや介護士さんがおられますが、病室ではなく貸し部屋で
家族が泊まってもいいし、外出も自由、お酒もOK、というところです。
でも、家が大好きだった父は、ここにきてガクンと体力が落ちていきました。
家に帰りたい!
父の悲痛な思いがひしひしと伝わってくるので、父を置いて帰る時は本当に気が重く・・・
父が眠ってからこそっと帰るようになりました。
何よりありがたかったのは、父が苦しまなかったことです。
ペインクリニックですから、痛みに関しては専門です。
素人なのでよくわかりませんが、麻薬シールを身体にはって痛みを和らいでいたそうです。
そして点滴などの延命治療はいっさい無し。
癌なので最期は痩せ細っていきましたが、
人は枯れ枝のように散っていくのが、
一番自然な死に方だそうです。
先生の話を聞くと「父は最期まで生き抜いて散った」という気がします。
5月、6月は福岡と長崎を行ったり来たり、
そして7月に入ってからはほとんど長崎で過ごし、週末だけ福岡に戻るという生活が続いていました。
でも、先週の金曜日、とうとう帰れなくなりました。
「ご主人を家に連れて帰るなら今ですよ」と先生から告げられ、
母は「連れて帰ります」とキッパリ即答しました。

ここで2つ目のミラクル!
父を乗せた車がペインクリニックを出た瞬間、
晴れているにもかかわらずサーッと雨が降りだしたのです。
父が通る道を洗いきよめるかのごとく降り、父を乗せた車が家に到着するやいなや雨はピタリとやみました。
この時、空に虹がかかりました。
虹の橋は天まで伸びているのかなぁと。

父の最後の帰宅を聞いて家族が次々と帰ってきました。
寝ている父のそばでみんなでお酒も飲みました。
不謹慎と思われるかもしれませんが、
メソメソ泣いているよりも明るく送り出す方が、父の最期に似合っている気がしました。
父の顔を時々のぞきながら、心の準備をする時間でした。

お夕飯は皿うどんです。
これで5人分! これを二皿!
こんなにたくさん身内が集まる機会はそうそうありません。
そして最後のミラクル!
「休めるうちに休んでおくように」と弟にさとされ、早めに休んでいた母でしたが、
夜の11時半を過ぎた頃、
突然寝室から出てきて父の元へ駆け寄りました。
そして「パパ、パパ・・・」と何度も父を呼びました。
父が息をひきとったのはそれからまもなく。
静かな静かな最期でした。
母はなぜ最期の時がわかったのか?
とても不思議でなりません。
父は、母と4人の子どもと11人の孫と4人の曾孫をおいて逝ってしまいました。
明るくて、お酒が大好きで、研究熱心だった父。
時間のある時はいつも何かを書いていました。
私がブログを書いているのは父の遺伝子かなぁ?
青春時代は志願兵として戦地に赴き、辛い時代を過ごしました。
晩年は戦争で亡くなった戦友たちを弔うために、何度も旅行に行きました。
最後の旅行は
今年の3月、つい数か月前のことなのに・・・
出棺の時は「同期の桜」で見送りました。

父はとてもオシャレでした。
父のクローゼットは「すばらしい!」くらい片付いています。
残念ながら、私はあの几帳面さを受け継いでいませんが・・・
葬儀の前、母は父のネクタイピンを7人の男の子の孫に形見分けし、

父のネクタイピンを胸に7人の孫とうちの娘婿で父の棺を運びました。

告別式ではいっぱい泣いたけど、御斎の席ではみんなの笑顔が戻りました。
(父の遺影と同じポーズをしています。)
おとうさんも一緒に飲んでいるよね?
父が好きだったニュー長崎ホテルの桃林からの夜景
そして、何度見たかわからない高速道路から見える大村湾の夕陽
寂しさはこれからじわじわと湧いてくるのかな?
父の娘で幸せだったと思います。
今日は初七日です。