陵山里古墳群の周りには、もうひとつの世界遺産
羅城(ナソン/나성)があります。向こう側の盛り上がった部分が羅城です。
羅城は首都を守るために築かれた外郭で、首都の中と外を分ける境界にもなっていました。
私が立っている場所、陵山里古墳郡も首都の外側になります。
これは「京外埋葬」という原理に基づいているそうで、
王族のお墓はあえて都の外に造ったようです。
公州に都があった時は、川や山などの自然環境を利用して防衛体制を固めていましたが、
扶余の時代になってはじめてこのような新たな防衛施設(城郭)が造られました。
白い点々が羅城です。
(推定約8.4㎞、現在確認されているのは約6㎞)
熊津(公州)から泗沘(扶余)に都が遷った538年ごろに造られたとみられています。
半月型に造られていて、錦江(川)も敵から都を守る役目をしています。
羅城と錦江(川)に囲まれた部分が首都で、
この中に宮殿、寺院、官庁、民家などが建っていました。百済は中国から伝わった高度な技術でこの城郭を造りました。
そしてその後、その技術が日本にも伝わっています。
と、固い話が続いたので、ここらでちょっと息抜きを!
百済から日本に伝わったという城郭が、うちから車で40分くらいのところにあるとわかり
見に行って来ました~!
水城(みずき)という城郭です。
これねー、なんで百済式の城郭が福岡に造られたかというと・・・
百済が滅びた後、百済を復興させるために日本(倭国)軍は2万7千人もの兵をあげて扶余に行ったのです。
でも、663年の白村江の戦いに破れ、日本は撤退したのですが、
さぁ、その後が大変!
もしかしたら新羅が日本にも攻めてくるかもしれない!と心配になり、
大野城、基肄城、水城などの城郭を築いたのです。
なにせ、九州は朝鮮半島から近いですから。
水城はこのように太宰府を守るために造られています。
城郭の作り方の技術を教えたのは、百済から亡命してきた人たちでした。
それで百済式の城郭になったのですね。
反対側からみたところ一ヶ所だけ入れるところがあったので、城郭に登っていったら中に古~いお墓がありました。 長さ1.2km、幅80m、高さ9m
上から見下ろすと、結構高いことがわかります。
これなら敵はやすやすと攻めてこられないかも。
でも、結局、新羅は来ませんでしたけどね~。
城郭があって平地、そしてさらにガクッと下がっているのは水路だったところのようです。
近くに高速道路や新幹線が通っているので、城郭はここでバサッと切れています。^^;
道路や線路を造る際に取り壊しちゃったんですね。 ジャガは「なんでバァバは楽しそうにしているんだろ?」って
思っていたかもしれません!
お嫁ちゃんは「テレビでチュモンを観ていたんです~」とまんざら興味なくもなさそう。
ま、ちょっと時代がズレていますが・・・
公州や扶余に行かなかったら、地元の貴重な遺跡を見ることもなかったでしょう。
韓国に行って、日本を知る!ですね。
今年の春、
水城館という資料館もオープンしてました。
いろいろと説明もしてくださいます。
興味のある方は行ってみてくださいネ。
水城館
福岡県太宰府市国分二丁目17-10
TEL/FAX:092-555-8455
開館時間 9:00〜16:30
休館日 月曜日(祝日の場合はその翌日)、 年末年始(12月28日〜1月4日)
入館料 無料